<民族・歴史>
ウクライナ人は東スラブ族に属し、ロシア人、ベラルーシ人とは近い関係にある。
B.C.8〜7世紀黒海北岸地域はギリシャ人の植民市が建設され、ステップ地帯ではスキタイ、サルマート等のアーリア系遊牧騎馬民族国家が興亡した。B.C.5世紀にはギリシャ人植民都市パンティカパイオン(現ケルチ)を中心にボスポロス王国が成立し、ギリシャとステップ遊牧国家との中継貿易で栄えるが、2世紀には東ゴート族の侵入を受け、4世紀後半にはフン族の侵入を受け滅亡している。
6世紀頃ドン川、ヴォルガ川下流地域を中心にトルコ系ハザール汗国が勃興し、北方森林地帯のスラブ諸族を支配した。ハザール汗国では支配者がユダヤ人を発生させた。その後、ポーランドによるウクライナ支配や1772年に始まるロシア帝国によるポーランド分割を経て、ウクライナ、ベラルーシ、リトアニアにユダヤ定住区域が設けられた。現在ウクライナを中心に分布する東ヨーロッパのユダヤ人はこのような起源を持つ。
9世紀頃、通商路を求めて南下したノルマン人が先住のスラブ諸族により、スラブ化する過程で成立したキエフ・ルーシはハザール汗国の衰退に乗じてこの地方の主権を握り、コンスタンティノープルを通じて東方ギリシャ正教を取り入れた。12〜13世紀にかけてキエフ・ルーシは内紛によって力を弱め、13世紀前半バトゥ率いるモンゴル軍によって滅ぼされ、キプチャク汗国が成立した。キプチャク汗国の後を受けたクリミア汗国は黒海沿岸地帯を衷心に支配したが、北西部の森林ステップ地帯はポーランドとリトアニアの支配化に入り、15世紀頃からポーランド,リトアニア支配地域から逃亡した農民を中心としてウクライナ・コサック集団の形成が始まり、この頃からウクライナの民族意識の自覚が見られる。キプチャク汗国の支配を破ったモスクワ大公告がロシア世界の中心となり、ロシア帝国として領土を拡大する中で、ウクライナの土地もロシア領となり、オスマン・トルコの保護国となっていたクリミア汗国も18世紀末ロシアに占領された。
ロシア帝国下では、ウクライナ民族主義は徹底的に弾圧され、ロシア化がはかられた。ロシア革命によって成立したソビエト政権は、初期にはウクライナ化政策を行うが、30年代になると180度転換し、再びロシア化がはかられた。1991年のソ連解体後独立し、ロシアに対抗する気風が強い。
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